私の花図鑑          花の里日記  2018.1.3   342


              火曜日  (晴れ時々曇り)   父

 今年の正月はどこにも行かずに孫に会う位でのんびりとしていた。
孫と遊んでいるとこんな歌が浮かんで来る。
この子供たちがどんな未来を創り出すのだろうと考えるのだ。
またこんな時は昔の事をあれやこれや思い出す。
父の事は書いた記憶が無いし、もう父を良く知っている人はいなくなっている。
そんな事で一つ記録として書き残しておこうと思う。
父は明治41年の暮れに農家の次男として生まれた。
父の青春期は戦前の国威発揚の時代である。
その時代に家を継ぐのは長男と決まっており、次男の父は軍人をめざして呉の海軍兵学校に行き
そこを卒業した。
その時、軍の関係者は父を宮内庁の警護兵として推薦したかったそうだが、父は堅い事が嫌いで
軍艦の機関兵として軍務についたそうだ。
父は外人みたいにかっこ良くて体も丈夫であったそうだ。
やがて大平洋戦争が始まり父は軍艦に乗りシナ方面に行っていたそうであるが、そこで部下達が
起こした内輪喧嘩の責任を一人で背負い、戦時ではあるが兵役免除となり帰国した。
そんな時は恥ずかしくて地元には帰れなかったのであろう。
知人の照会かなにかで和歌山県の工場に行って就職したそうである。
ここで機関兵の技術を生かして工場の機械の操作等をしていたのであろう。
父の乗っていた戦艦はその後に米軍の攻撃を受けて沈み生き残ったのは、たった10数人
だったそうだ。
大阪でその生き残りの人と良く会合をしていたのを私は記憶していた。
この兵役免除が私たちをこの世に出してくれたのである。

 母は和歌山の生まれである。
祖先は貧乏な下級武士の出であったそうである。
母の父は手先が器用で料亭か何かで料理人をしていたそうな。
兄弟は多くて母はカフェの女給をしていた。
それを父が見初めたのであろう。
母が私に、父が死んでから貰らした話では当時母は二人の人から求婚されていたと。
その時かっこ良い父のほうを選んでしまって失敗だったと冗談めかして言っていた。
あの時に教師をしていた地元の人と結婚していれば、こんな農家の苦労はしないで良かったと。
そう言えば母はほとんどと言って良いほど農業の手伝いはしなかったのである。
もっぱら家事に専念していた。
父は長男の兄が戦死したので母と二人で、戦争で都会の経済が破滅状態であった昭和18年ごろ
に地元の広島に帰って農業を手伝っていた。
そこで昭和20年8月、広島市に原爆が落とされたのだ。
私の家は広島市の隣の郊外にあり、母はその原爆が落ちたあとすぐに黒い雨が降り、白い壁が
黒くなったと言っていた。
その原爆が落ちたあとすぐに父は、甥が市内で行方不明になったので姉に頼まれ数日壊滅した
被爆地に出て行きその彼を探し回った。
結局父は彼の弁当箱しか発見出来なかったのである。
当時は近くのお寺に原爆によるヤケドで体が焼け焦げた人たちが沢山来て水を欲しがり飲んで死んで
いったとか。
寺では大きな穴を掘り沢山の被害者を燃やし葬ったそうである。
戦後原爆症の調査等が国から色々とあったが父はそれを嫌い一切援助もして貰わなかった。
実際父は元気で病気もせず医師からは100歳まで元気に生きられるよと言われていたのであるが
好きな酒が原因で76歳で死んだのである。

 この広島で兄と私が生まれたのであるが、父と母はここの生活が苦しかったのかまた都会の大阪
へ家族をつれて行き、そこで一時カフェを経営していたそうである。
その後父は大阪の中央魚市場のクレーンの運転手をしていた。
そのせいか私が子供の頃、いつも魚やクジラの肉ばかり食べさせられていたのである。
一度アレルギーになり医者の先生からタンパク質を取り過ぎですと言われた記憶がある。
でも当時そんなに魚を食べられるのは他の人から見るともったいない事であった。
また人々は生き残るだけで大変な時代であったのだ。
父はその後、私たち家族を連れて広島に又帰り、家を継いで農業をし家族を支えた。
それからは魚はほとんど食べないで自分で栽培した野菜ばかりであった。
農家の家には牛がいたり乳をしぼる山羊がいたり卵を産む鶏を飼っていた。
山羊の乳は私も搾って飲んでいた。
独特の香りがあり濃厚な乳であった。

 大阪から広島へ帰る時、私はまだ小学校の4年生であった。
私が拾っていた雌の子猫(黒と茶色だけの色で綺麗で無い)を木箱に詰めて持って行って貰った。
当時はまだ汽車で、石炭を燃やし黒い煙をはいていた。
それは鈍行の各駅停車で大阪を昼に出て呉方面は朝方であった。
魚を売る行商人たちが汽車に乗ってきた記憶がある。
広島に着いたのは昼頃だったかも。
住み慣れた街の大阪を離れ、田舎に行くのは当時の子供ごころにはとても悲しかった。

 父は絶対に怒りを表さない人でおおらかな性格もあり近所の人からも信頼されていた。
そんな父を見ていた私なのか、私は子供を一回でも怒った事は無い。
またそんな事で魚が好きで肉よりもそちらを選ぶ。
また野菜も大好きだし茶粥も美味しいので大好き。
それと当時はお婆さんが作っていた花畠に、見よう見まねで花を栽培しだしたのである。
やはりこれは農家であった父の先祖の遺伝であろう。
私が自然好きなのも都会だった都島区の大阪在住時代に父は自転車の前後に兄と私を載せて
遠い東の生駒山付近に連れて行って遊ばせて呉れたものだった。
兄と私は遊び疲れてその帰りに動く自転車の上でうたた寝していた。
当時はその田舎の田に穴が開いていてザリガニがいたのを近所の子供たちと採りに行ったのを
思い出す。
寒さに弱いのも母の先祖が暖地の蜜柑で有名な和歌山なので、そうなのかと思う。


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